アルコールの起源 · 第1.2話

メソポタミア――最初の文字記録が伝えるビールの歴史

Mindrink Science第1.2話研究に基づく歴史

最初の都市と最初の書記たちの時代のビール

先史時代の酒は、残された痕跡から探るしかない。メソポタミアでは、そこに文字の記録が加わる。帳簿や醸造に関わる文書から、宗教や人々の暮らしに至るまで、ビールの役割をたどれるようになるのだ。誰が発明したかは分からない。それでも、最初の都市の組織や儀礼の中で、ビールがどのような存在だったかが見えてくる。

幅広い煉瓦の壁と記念碑的な階段をもつウルのジッグラト。2006年の写真。
ウルのジッグラト。紀元前2100年ごろに建てられ、近代に一部が復元された。ウルの王たちが南メソポタミアの大部分を治めていた時期のものである。 写真:Michael Lubinski, “Ziggarut of Ur”; コントラスト調整 Tmtriumph。CC BY-SA 2.0。

メソポタミアとは、ティグリスとユーフラテスに挟まれた土地――いまのイラクにあたる。その南部、灌漑に頼る暑く乾燥した平野で、世界最古級の大都市のいくつかが形づくられた。

都市を支えるには、農業の余剰が必要だった。農作業をしない職人や神官、書記たちを養うだけの穀物が要る。神殿などの組織は、大量の穀物や家畜、織物を管理し、人々の労働を取りまとめていた。この規模になると、記憶だけでは追いつかない。管理する側には記録が必要になった。

南メソポタミアの最初の文字記録は、こうした管理の現場に現れた。現存する最古の文書――紀元前3200年から3000年ごろ――は、物語でも詩でもない。帳簿である。[2][3] 湿った粘土に描かれ、あるいは押し込まれた記号は、音を写すためよりも、まず数量、品物、分類を記すためのものだった。専門家はこれをプロト楔形文字と呼ぶ。アルファベットではない。その後の数世紀で、楔形の記号――楔形文字そのもの――は語と音節を表すようになり、やがて手紙、賛歌、神話、法律を記すようになった。[3]

この変化によって、歴史家が知りうることそのものが変わった。エピソード1.1では、最古の発酵飲料は痕跡から推論されていた。石臼のなかの変質したデンプン粒、甕の壁に吸収された酸。すべては、それらの痕跡をどう解釈するかにかかっていた。メソポタミアでは、これらの手がかりに新たな種類の史料が加わる。人が書き始めたのだ。

そして、最初期の行政担当者が数えるに値すると判断した物のなかに、ビールがあった。[2]


帳簿に記されたビール

最古の粘土板に出てくるビールは、説明が必要な目新しい品ではない。すでに分類されている。甕に似た記号の形の違いが、ビールの種類と解釈される九つの区分に対応し、原料は別に数えられていた。麦芽や粗く挽いた穀物と考えられるものも記されている。[2] 記号の正確な意味は不明だが、区別そのものは明確だ。帳簿のつけ方にも、品物ごとの決まりがあった。サルヴァトーレ・モナコが調査した初期楔形文字期の粘土板では、数量の記し方が商品によって異なり、慣れた読み手は数字の書き方から大麦か麦芽かを判別できた。[4] どの区分が何を指したにせよ、ビールがすでに日々の管理の対象になっていたことは分かる。

区画に分けられ、刻まれた記号と押し込まれた数字をもつ小さな粘土板。
麦芽と砕いた大麦に関する帳簿。おそらくウルク出土、紀元前3100–2900年ごろ。 画像:The Metropolitan Museum of Art, object 1988.433.3, Purchase, Raymond and Beverly Sackler Gift, 1988。パブリックドメイン;CC0 Open Access。

千年後、ウル第三王朝のもと――紀元前2100年から2000年ごろ――、文書から、原料や製品の動きをたどれるようになる。醸造所に入る穀物、そこから出るビールを追うことができる。ペーター・ダメロウが検討した大規模な帳簿の一枚は、およそ30万リットルに達する引き渡しを記録し、前期の不足分を繰り越していた。[2] ビールは大量生産されているだけではない。会計上の債務として記録される対象になっていた。数量の背後には人々の姿も現れる。宮殿や神殿に仕える醸造者で、個人の印章で取引を認証する者もいた。[5]

誰がビールを受け取ったかを見ると、「シュメールの労働者はビールで報酬を得ていた」という通説も見直す必要がある。ノイマンが調べたウル第三王朝期の文書では、宮殿や神殿の労働者への定期的な報酬は、主に毎月の大麦と年に一度の羊毛だった。ビールはむしろ、旅行や特定の任務のための支給、あるいは自分で食事を用意できない人への配給に登場する。ウンマの帳簿には、強制移住させられた女性39人と子ども10人に、穀粉と毎月のビールを配った記録がある。ノイマンによれば、自分たちで食事を用意する家がなかったため、すぐに口にできる食料を受け取っていたという。旅をする人々にも同じように食料が支給された。[5]

紀元前2050年ごろのウンマ。ある書記が、公務で旅をする人々への支給品を帳簿につけていた。粘土板には、エラムに向かっていたらしいアグアという男性が受け取った品々が並ぶ。パン、油、魚三尾、玉ねぎ三束、上質のビール、そして醸造に関わる製品 dida が甕一つ分。[1] こうした使者への支給量は、役目や地位によって異なった。[5] 書記は、後世にアグアを紹介しようとしたわけではない。それでも帳簿が必要だったおかげで、私たちは彼の名と、何を飲み、なぜそれを受け取ったのかを知ることができる。先史時代の痕跡からは得られない具体性だ。

ただし、これらの文書は主に神殿などの組織が、自分たちの管理業務のためにつくったものだ。紀元前3000年から2600年ごろのウルを調査した考古学者ジャコモ・ベナーティは、独立した職人や村人の姿が、文字記録にはほとんど現れないと指摘する。[6] 神殿がビールを数えたからといって、周囲で醸造されたすべてを支配していたわけではない。

ウルの発掘で現れた煉瓦の壁、戸口、舗装された中庭の白黒写真。
ウルで発掘された家屋と中庭。1932年の写真。これらの街区の住人は、宮殿や神殿よりもはるかに少なく文書に現れる。 写真:Library of Congress, Prints & Photographs Division, Matson Collection, LC-DIG-matpc.16105。写真の記録。公表に関する既知の制限なし。

数字が細かく記されていても、それが毎回の醸造をそのまま表しているとは限らない。ダメロウは、紀元前2350年ごろのラガシュで、毎月の穀物支給量が十年以上ほとんど変わらない例を指摘した。この規則性は、そのつどの醸造実績よりも、あらかじめ定めた割当量を記していた可能性をうかがわせる。[2]

ここに帳簿の限界がある。数量や分類、納入の義務については多くが分かる。だが、甕に入っていた飲み物そのものについては、驚くほど分からない。


そのビールはどのようなものだったのか

飲み物を再現しようとすれば、まず帳簿に出てくる用語を読み解く必要がある。ところが、その多くは今も意味がはっきりしない。原料として最も確かなのは大麦だ。エピソード1.1で見た穀物の飲み物と同じく、醸造には下処理が要る。穀物には主にデンプンが含まれ、酵母がアルコールをつくるには、先に糖へ分解しなければならない。大麦を発芽させてできる麦芽には、その分解を助ける酵素が含まれている。[2]

解釈が難しくなるのは、通例「ビールパン」と訳される bappir だ。この訳語からは、焼いたパンを水に崩して入れる様子が思い浮かぶ。その解釈は正しいのかもしれない。だが帳簿では、通常 bappir を個数ではなく容積で数えている。パンを数える方法としては奇妙である。[2] つまり「ビールパン」という訳語そのものに、一つの仮説が入り込んでいる。

文書には多くのビールの名が出てくる。だが、どんな飲み物だったかは書かれていない。紀元前2500年ごろの文書は、黒ビール、黒くて甘いもの、赤いもの、濾過したものと訳される区分を立てる。ウル第三王朝の帳簿には、「普通のビール」と「良いビール」がたびたび記録される。[2] これらの語は分類するが、描写はしない。「良い」はアルコール度数を伝えず、「濾過した」は液体がどれほど澄んでいたかを教えない。メソポタミアのビールをクワスに似た、とろみがあってアルコール度数の低い飲み物として、あるいは強いエールとして描く復元は、史料が許す範囲を超えている。

ホップを使った証拠はない。今日の多くのビールにある、あの苦味を想像するべきではないだろう。[2][7] 穀物の粒子が液体の中に残った飲み物もあったらしい。メソポタミアの図像に描かれる長いストロー状の管は、そのためだった可能性がある。管を使えば、底の沈殿物を避けながら、液面の下から飲み物を吸い上げられる。[2][7] ただし、すべてのビールが濁っていたとも、誰もがこの方法で飲んだとも限らない。

淡色の石の小さな円筒印章と、暗い粘土への現代の印影。座った人物が大きな器から管で飲む場面が二段に重なる。
高さ約3.6センチの円筒印章とその現代の印影。紀元前2600–2350年ごろ。座った人物が大きな器から管で飲む。印影は現代のもの。印章の出土地点は記録されていない。 画像:The Metropolitan Museum of Art, object 56.157.1, Rogers Fund, 1956。パブリックドメイン;CC0 Open Access。

最もよく知られた手がかりは、醸造の女神にささげられたシュメール語の詩『ニンカシ賛歌』だ。紀元前1800年ごろの写しが残っている。生地、炉、麦芽、器が順に登場し、醸造の工程を思わせる。だが、これは賛歌であって作業の手引きではない。麦芽と bappir をいつ混ぜたかは書かれていない。ダメロウは、記された作業が一回の醸造の順序に沿っているのかどうかさえ疑問視している。[2][9]

翻訳にも難しさがある。麦芽、麦汁、糖化といった訳語は、現代の醸造技術の言葉だ。私たちは賛歌を訳文で読む時点で、すでに現代のビールづくりを通して眺めている。確かなレシピがないため、研究者は実際に醸造する実験も行ってきた。はるか後世の設備を参考にした実験では、大きな甕を一部地中に埋めて醸造することが技術的に可能だと示された。ただし、それで「シュメールのビール」を再現できたわけではない。[2]

興味深い食い違いが残る。当時の会計係は何種類ものビールを区別し、その量を細かく記録できた。一方、歴史家はそのうち一種類の味さえ、確信をもって語れない。仮に飲み物を再現できても、飲むことが当時の人々にとって何を意味したかは、また別の問題だ。


分かち合い、詠われ、規制される

人々が飲む姿を知るには、帳簿から図像へと目を移す必要がある。ウルの王墓、プアビの墓から出土したラピスラズリの円筒印章は、紀元前2600年ごろのもので、数センチの高さに二つの宴会の場面を収めている。粘土の上で転がすと、二列の人物が印される。上段では、座った賓客が大きな器から長い管で飲む。下段では、別の人々が杯を持ち、従者が仕える。[8] 共用の甕は一般にビールと結びつけられ、杯にはワインが入っていた可能性もある。それぞれの器に何が入っていたかまでは特定できない。それでも、はっきり見て取れる違いがある。座っている者と仕える者の違いだ。宴会は集団的だが、階層ははっきり残っていた。

こうした品が豪華な副葬品を伴う墓から出土することも忘れてはならない。メソポタミアの美術からまず見えてくるのは、力を持つ人々の姿だ。とはいえ、共に飲む習慣は王族だけのものではなかった。ウルの家屋やごみ捨て場、墓からは、紀元前2900年から2700年ごろの量産された杯の破片が大量に見つかっている。ベナーティはこれを、人々が集まって飲んだ痕跡と解釈し、共同作業との関係を指摘する。たとえば収穫期に食べ物とビールを用意できれば、一世帯だけでは足りない人手を集められたのかもしれない。[6]

宮廷の文書も、支配層の視点から書かれている。王をたたえる賛歌には、紀元前2050年ごろ――ほぼアグアと同時代――のウル王シュルギが、宮殿で太陽神ウトゥや女神イナンナと酒を飲む姿が描かれている。[5] これは食事の記録ではない。誰と飲むかによって、王と神々との特別な結びつきが表現されている。とはいえ、ビールは王の食卓だけでなく、供物や宗教儀礼を通じても神々と結びついていた。醸造にはニンカシという女神がいた。[5]

『ニンカシ賛歌』も、レシピとして読むのをやめると違って見える。これは詩なのだ。二行ごとに女神の名が繰り返され、大きなシャベル、炉、葦の敷物、心地よい音を立てる器が、具体的に描かれる。最後に現れるのは、流れ出すビールだ。「濾過したビールを集め甕から注ぎ出すのはあなた。ティグリスとユーフラテスの奔流のようだ。」[9] この平野の農業を支えた二つの川になぞらえて、注がれる酒をたたえている。どうでもよい飲み物のために、こんな詩は生まれない。

文学には、酔いがもたらす出来事も描かれる。シュメールの物語『イナンナとエンキ』では、訪れた女神が食べ物、水、ビールで迎えられる。エンキは彼女と酒を飲み、王権を含む人間の制度や技術に結びついた神の力を譲る。酔いがさめると、大臣にそれらの力がどこへ行ったかを尋ねる。[10] この神話は日常のビールの強さを教えてはくれない。だが、酔いとその結果が、物語の筋になるほど身近なものだったことは示す。

文字の記録は、私たちを居酒屋にも案内してくれる。ノイマンが引くウル第三王朝の文書は、居酒屋の主人のもとで結ばれた信用契約に言及する。[5] そこで飲み、そこで取引も行われた。

数世紀後、紀元前1750年ごろ、バビロン王ハンムラビの法律は、酒の売買と店内での行動の両方を規制している。通例108条とされる規定は、居酒屋の女将が受け取る支払い――大麦か銀――と、代わりに出される飲み物の価値に関わる。次の109条は、家で犯罪を企てる者を捕らえ当局に引き渡さなかった女将に死刑を定める。[11] これは定められた刑罰であって、実際の裁判記録ではない。権力が規制しようとしたことを教えてくれるが、人々がどう振る舞ったかは教えてくれない。それでも、そうした店が規制の対象になったこと自体が、その役割を物語っている。居酒屋では金銭がやり取りされ、当局の目の届かないところで人々が集まっていた。

ハンムラビ法典の石碑。暗い石の高い一枚岩。頂部に二人の人物の浮き彫りがあり、残りは楔形文字の列で覆われる。
ハンムラビ法典の石碑。紀元前1750年ごろ。ルーヴル所蔵。頂部の浮き彫りは、座った神の前に立つ王。下の列は法律集を刻み、居酒屋に関する規定を含む。 写真:Mbzt, "Code de Hammurabi, roi de Babylone ; face avant". CC BY 3.0.

結局、文字は何を変えたのか。

すべてが確かになったわけではない。会計係は暮らし全体を観察する人ではなく、管理に必要なことを記す。賛歌は手引きではない。宴会の絵は人口調査ではない。法律に書かれているのは、権力者が規制したいことだ。人々の実際の行動ではない。ビールの味やアルコール度数といった基本的な点さえ、なお分からない。まして、最初の発酵飲料がいつ生まれたかは、これらの記録からは知りようがない。メソポタミアの都市より、はるかに古いからだ。

文字がもたらすのは、別の手がかりである。アルコールの歴史で初めて、一つの飲み物が複雑な社会の組織や人々の暮らしの中で果たした役割を追えるようになる。ビールは書記に数えられ、組織から支給され、専門の醸造者につくられる。人々は大きな器を囲んで分かち合い、印章にその姿を刻み、詩に詠み、神々に供える。居酒屋で売られ、法律にも定められる。どの史料も、つくられた目的に応じて一部分しか伝えない。それでも合わせて読めば、同じ飲酒文化が異なる角度から見えてくる。史料同士を照らし合わせられること。それが、痕跡から推し量るしかなかった先史時代との大きな違いだ。

ビールそのものには、なお分からないことが残る。それでも、酒を取り巻く人々の営みは、はっきりと見えてくる。

このような記録を残したのは、メソポタミアだけではない。同じ時代のナイル川流域では、別の都市社会が書き、醸し、帳簿をつけていた。

参考文献

  1. Johnson, J. Cale. "The Ur III Tablets in the Valdosta State University Archives." Cuneiform Digital Library Journal 2006:2, §5. 学術版. あわせて CDLI P273413 / VSU 05、翻字と翻訳。甕の容量の見積もりは版と現行カタログで異なり、本記事は dida の甕をリットルに換算しない。最後の受給者の職名は不確定のままである。
  2. Damerow, Peter. "Sumerian Beer: The Origins of Brewing Technology in Ancient Mesopotamia." Cuneiform Digital Library Journal 2012:2, 1–20. 全文. とくに初期の文字とビールについては§§1–3、原料・帳簿・分類については§§4–5、大規模な醸造帳簿については§5.8、賛歌・実験・復元の限界については§§6–7。一部を埋めた甕での醸造実験(Tall Bazi)はダメロウの批判的議論を通じて取り上げており、すべてのメソポタミア・ビールの復元ではない。本記事はその遺跡名を本文で挙げない。文脈はここで扱う南メソポタミアよりはるかに後世である。
  3. Spar, Ira. "The Origins of Writing." Heilbrunn Timeline of Art History. Metropolitan Museum of Art, October 2004. 博物館エッセイ.
  4. Monaco, Salvatore F. "Unusual Accounting Practices in Archaic Mesopotamian Tablets." Cuneiform Digital Library Journal 2005:1, 1–7. 全文. とくに§§1–4および6。
  5. Neumann, Hans. "Beer as a Means of Compensation for Work in Mesopotamia during the Ur III Period." In Lucio Milano, ed., Drinking in Ancient Societies: History and Culture of Drinks in the Ancient Near East. History of the Ancient Near East / Studies 6. Padua: Sargon, 1994, 321–331. 公開スキャン. 報酬と醸造者については323–325頁、居酒屋・儀礼・王の宴会については325–327頁、特別な配布と使者の補給については328–331頁。
  6. Benati, Giacomo. "Re-modeling Political Economy in Early 3rd Millennium BC Mesopotamia: Patterns of Socio-Economic Organization in Archaic Ur (Tell al-Muqayyar, Iraq)." Cuneiform Digital Library Journal 2015:2, 1–37. 全文. 文字記録の標本の限界については§4.3.2、飲酒器・饗宴・労働動員の可能性については§§5.3.5–5.3.8。
  7. Paulette, Tate, and Michael Fisher. "Potent Potables of the Past: Beer and Brewing in Mesopotamia." The Ancient Near East Today 5, no. 4, April 2017. ASOR. 記事ページ. 本エピソードのためにダウンロードした版で参照。古代テクストと専門研究を補う概説で、とくに飲酒具とホップ使用の証拠の欠如について。
  8. British Museum. "Cylinder seal", object 121545, registration 1928,1010.236、ウル王墓のプアビの墓出土、紀元前2600年ごろ。収蔵記録. あわせて二つの宴会場面の記述およびダメロウ[2]、図1。
  9. A Hymn to Ninkasi. シュメール語作品 4.23.1、英語訳、Electronic Text Corpus of Sumerian Literature、オックスフォード大学。テクスト. 醸造の描写:13–44行。引用行:45–48。日本語の引用はETCSL英語訳("It is you who pour out the filtered beer of the collector vat; it is like the onrush of the Tigris and the Euphrates")の訳であり、シュメール語からの直接訳ではない。写本の年代と翻訳の議論についてはダメロウ[2]、§§2.3および6。
  10. Inana and Enki. シュメール語作品 1.3.1、英語訳、Electronic Text Corpus of Sumerian Literature、オックスフォード大学。テクスト. 迎えと飲酒についてはセグメントC、1–30行。贈与についてはセグメントD。ビールの効き目が去ったあとについてはセグメントF、1–18行。文学的証言であり、歴史的出来事の記録ではない。
  11. Laws of Hammurabi, §§108–109. 標準的な学術版と翻訳:Martha T. Roth, Law Collections from Mesopotamia and Asia Minor, 第2版, Writings from the Ancient World 6, Atlanta: Scholars Press, 1997, 第8章("Laws of Hammurabi")、71–142頁――1995年第1版から章は変更なし。条項は段落番号で引用し、この番号は版を超えて安定している。§109についてはノイマン[5]、325頁および注45も参照。公開の紹介としては Alexandra N. Quinn, "Beer: Taverns and the Law," *CDLI Tablet* 551. 本記事は条項を言い換え、定められた刑罰と適用の証拠とを区別する。